ドラゴンという獣
この世界には、「ドラゴン」という生物がいる。
彼らは強靭な鱗に包まれた巨大な身体を持ち、鋭い牙や爪という強力な武器を備え、さらには大きな翼で自在に空を飛び回ることさえできる。
圧倒的な力。
だが、それだけではない。
彼らは、とてつもない知能までも兼ね備えているのだ。
人間がどんな罠を仕掛けようとも看破し、どんな武器を用いても即座に対応してくる。まるで、人間が練り上げた策略のすべてを、最初から見透かしているかのように。
そんな隔絶した存在であるドラゴンだが、よほどのことがない限り、我々を襲うことはない。人間など餌としては食いでがないし、相手にするのも面倒だと思われているのだろう。
だが、そんなドラゴンが、人間に対して明確な敵意を剥き出しにすることがある。
それは、この世界で「黒の水」と呼ばれる、ドロドロとして異臭を放つよく燃える水や、その水が固まったとされる「黒の石」を使用したときだ。
不慮の事故で火がついた程度ならば、問題はない。
だが、明確な意思を持ってこの「黒の力」を燃やしたとき、ドラゴンはどこからともなく飛来し、容赦なく襲いかかると言われている。
たとえ、どれほど凍え苦しもうとも、決して「黒の水」を使用してはならない。
ドラゴンを怒らせてはならない。
それが、この世界で人間が生きていくための、絶対の掟だ。
* * *
パチパチと爆ぜる薪の火を眺めながら、一人の老人が孫に向かって語りかける。
「いいかいカイル、よぉくお聞き。この大地に眠る『黒の水』と『黒の石』にだけは、決して触れてはいけないよ。恐ろしい、恐ろしい竜が現れて、みんな食われてしまうからね」
老人の話を聞きながら、カイルは今にも泣き出しそうに瞳を揺らしていた。
凍える冬
おじいちゃんの話を聞いて泣きべそをかいていたカイルも、今では自ら斧を振るい、冬支度を手伝う頼もしい少年へと成長していた。
しかし、どれほど備えようとも自然の猛威には抗えない。その年の冬は、少年の小さな肩にはあまりに過酷なものだった。
夏に父が病に倒れ、思うように薪を蓄えられなかったのだ。備えは瞬く間に底をつき、外では数十年に一度と言われる大寒波が吹き荒れている。
父も、母も、一つ下の妹も。寒さで顔を青くし、身を寄せ合って震えていた。このままでは、家族全員が凍えて死んでしまう。
絶望の中、カイルの脳裏に幼い頃の記憶が蘇った。おじいちゃんが話してくれた、あの「絶対の掟」のこと。
(よく燃える、黒の水や、黒の石……)
カイルには心当たりがあった。以前、父の井戸掘りを手伝った際、地底から出てきた奇妙な「黒い石」を拾い、自分だけの宝箱に隠し持っていたのだ。
カイルは自室へ走り、宝箱からその石を取り出した。異臭を放ち、不気味な光沢を宿す塊。
「……これがあれば、みんなを助けられる」
震える手で石を握りしめ、暖炉にくべようとした、その時だった。
――ズンッ!
家全体を揺るがすような轟音が響いた。
慌てて外へ飛び出したカイルの目に飛び込んできたのは、悪夢のような光景だった。猛吹雪を割って現れた巨大なドラゴンが、周囲の巨木をマッチ棒のように踏み倒しながら、カイルの家をじっと見下ろしていたのだ。
まだ、火はつけていない。なのに、なぜ。
カイルはあまりの恐怖に腰を抜かし、握りしめていた「黒の石」を深く積もった雪の中へ落としてしまった。
ドラゴンは、雪に転がった黒い石を一瞥すると、深く、重い吐息を漏らした。その黄金の瞳がカイルを射抜き、まるで行き過ぎた悪戯を嗜める親のような視線を向ける。
そのまま大きな翼を広げ、飛び去ろうとするドラゴンの背に向け、カイルは泣きながら叫んだ。
「だって、そうしないと家族が凍えて死んじゃうんだ!
燃やさないと、ほかにどうすればいいんだよ!」
ドラゴンは空中で一度だけ動きを止め、呆れたようにカイルを振り返った。そして、もう一度だけ大きなため息をつくと、そのまま雪雲の彼方へと消えていった。
静寂が戻った後、震えながら外へ出た家族が見たのは、無残に圧し折られた大量の木々だった。
それは、ドラゴンの巨体によって、まるで薪として使いやすい大きさに砕かれたかのように、家の前に散乱していた。
カイルたちはその木々を拾い集め、暖炉にくべた。
黒い石のような爆発的な熱はない。けれど、優しく燃える薪の火が、家族の命を繋いだ。
雪の中に埋もれた黒い石を、カイルが二度と拾おうとすることはなかった。
* * *
同じ頃、その寒波は、遥か遠く離れた別の村にも押し寄せていた。
「寒い寒い。今日はやっぱり家で図面を引いてりゃ良かったな」
村外れの丘で、不格好な木の骨組みを背負った少年が、寒さに震えながら空を見上げていた。彼の瞳は、雪雲の切れ間から飛び去っていく巨大な影を捉える。
「……こんな寒い時期に、鳥か?
いいなあ。あんなに自由に、空を飛べたら。……俺も、いつか」
少年がその影に憧れの眼差しを向けていた、その時だ。
「テオ!
いい加減にしなよ!
そんなガラクタ担いで立ち尽くしてたら、凍死しちまうよ!」
「ゴメン母ちゃん!
今行くよ!」
テオは、愛おしそうに背負った「翼」の骨組みを撫でると、母親の呼ぶ声の方へ、どんくさそうに駆け出した。
彼の手には、いつか重力の鎖を断ち切るための、拙い、けれど熱い夢が握られていた。
鉄の心臓
村外れの緩やかな丘。そこに、不釣り合いなほど大きな竹の骨組みと布を組み合わせた「人工の翼」を背負い、泥だらけになってひっくり返っている青年がいた。
「……あいたた。やっぱり、これじゃあ滑空が精一杯か」
テオ、二十五歳。
彼はこの数年間、鳥の羽ばたきを模倣する装置や巨大な凧を作り、自らそれを背負って丘から飛び降りる実験を繰り返してきた。
村人からは「空に憧れながら地面を転がり続ける馬鹿」だと笑われ、親戚からは「いい加減に地を這って働け」と小言を言われ続けていた。彼は、鳥のように空を飛ぶという、あまりに無謀な夢に取り憑かれていたのだ。
テオは、お世辞にも器用な男ではなかった。歩けば石につまずき、薪割りもどこかぎこちない。だが、その頭脳は凄まじいものだった。
彼が空を見上げるとき、そこに見えているのは単なる雲ではない。目に見えない風のうねり、空気の密度、重力という名の見えない鎖……。彼は、この世界の理を数式として書き換えることができる、稀代の天才だった。
(……今の『木と布と人力』では、重力の鎖は断ち切れない。もっと爆発的な力、この張りぼてを動かすための『心臓』が必要なんだ)
テオは煤だらけの手で、ボロ小屋の机に広げた設計図に最後の一線を引いた。
彼が作り出そうとしていたのは、風を待つための凧ではない。「黒の水」の爆発を強固な鉄の筒の中に閉じ込め、その荒ぶる力を「回転」へと変換し、自ら翼を回し続けるための「鉄の心臓」――内燃機関だった。
これまでの実験で、彼は「黒の水」が持つ異常な膨張エネルギーを、小さなピストンを突き動かす力に変えることに成功していた。薪を燃やすのとは次元が違う。その一滴には、大人が百人いたって生み出せないほどの強大なエネルギーが眠っている。
(理屈はすべて通った。この黒の水を圧縮し、爆発させてクランクを回す。その回転でプロペラを駆動させる。そうすれば重力の鎖を千切り、俺はついに自由に空を飛べる)
不思議なことに、これまで一度もドラゴンは現れなかった。伝承では、黒の水に触れるだけでドラゴンに食われると言われていたが、テオが試験管の中で小さな燃焼を繰り返しても、空は静かなままだった。
「所詮は言い伝えか。それとも……」
テオが窓の外の白み始めた空を見つめ、ついにその「心臓」に火を灯そうとした、その時だ。
突如、小屋の屋根が悲鳴を上げた。
凄まじい風圧。家鳴り。テオが一生をかけて計算した「揚力」の概念を、根底から覆すような圧倒的な質量の移動。外へ出たテオの前に、一頭のドラゴンが舞い降りた。
朝日を弾く鱗、白く輝く巨大な爪と牙。家を踏み潰すには十分すぎる巨躯の背には、悠然と大きな翼が広げられていた。
普通であれば、死の恐怖に身を竦めるだろう。しかしテオは、恐怖よりも先に、技術者としての敗北を悟った。
(……おかしい。計算が合わない。あんな巨体を、あの程度の翼面積で浮かせるなんて、物理法則を超えている。もし俺が同じ重さを持ち上げようとしたら、町一つを焼き尽くすほどの燃料を爆発させ続けなきゃならないはずだ。なのに、ドラゴンの周囲の空気はちっとも熱くない。風さえ、乱れていないじゃないか)
テオの頭脳が、目の前の景色を必死に逆算しようとして、破綻する。
自分が作ろうとしている「鉄の心臓」は、動けば耳を裂くような爆音を上げ、金属を溶かすほどの熱を放ち、汚れた排気を吐き出す。それは「空を飛ぶ」ための道具ではなく、大地の命を前借りし、無理やり暴力に変える醜い装置でしかないことに気がついた。
「……あんた、俺が自分で気づくのを待ってたんだな」
テオはドラゴンの黄金の瞳を見つめた。
ドラゴンは襲いかかる素振りも見せない。知能に絶望的な開きがある両者だったが、この瞬間だけは、テオの知性がドラゴンの思想の端に触れていた。
「あんたは信じてくれてたんだろ。俺なら、これに火を灯す前に、作っちゃいけない物だと気づくって。……あーあ。せっかく空を飛べると思ったんだけどなあ」
テオは力が抜けたように笑った。そして、汗と夢が詰まった設計図を、迷いなく暖炉の火へと放り込んだ。
黒の水のエネルギーではなく、ただの薪の火が、ゆっくりとテオの最高傑作を灰に変えていく。
それを見届けたドラゴンは、一度だけ短く、満足げに鼻を鳴らした。それは、同等の知性を持つ者への、最初で最後の敬意だったのかもしれない。
ドラゴンが去った後、テオは折れた翼の横に寝転がった。
「ま、風を待って飛ぶくらいが俺にはお似合いか。大好きな空を汚すわけにはいかねぇしな」
見上げる青空は、先ほどよりもずっと澄み渡っていた。
ふと、テオの視線が地平線の彼方へと向く。
その先にある空は、きっと赤く染まっている。自分の住むエストラ王国とレギウム帝国が、不毛な争いを続けている国境線だ。
「……あんたらも、いい加減戦争なんてやめちまいなよ」
誰に届くともない独り言を呟き、彼は立ち上がる。
テオが捨て去ることのできた「禁忌の火」は、今、その赤い空の下で、救いという名の絶望に変わろうとしていた。
奇跡の薬
エストラ王国の国境付近、泥濘に沈む野戦病院。そこは、空を見上げる余裕すら奪われた者たちが、泥を啜りながら死を待つ「地獄」だった。
軍医エリックの耳には、昼夜を問わず若者たちの悲鳴と、傷口が腐りゆく死臭がこびりついている。
「先生、頼む、切らないでくれ……!」
震える少年兵の脚を、消毒もままならない鋸で切り落とすたび、エリックの心は摩耗し、死んでいった。
ある朝、血に汚れた病院のベランダに、羽を怪我した一羽の伝書鳩が舞い降りた。
エリックがその傷を癒してやろうと手を伸ばすと、鳩の足には敵国レギウム帝国の紋章が入った筒と、極秘の伝令書が括り付けられていた。本来、前線のレギウム軍医へ届くべきはずのそれが、幸か不幸かこの病院に迷い込んだのだ。
【極秘:レギウム軍医部宛】
『……精錬された「黒き血」の抽出液を同封する。これは腐敗を完全に封じ込める奇跡の滴である。本国での臨床試験において、敗血症の発症率は劇的に抑制された。これまで切断を余儀なくされていた症例であっても、本剤を浸した布で覆うことで、組織の腐敗を阻止できる。もはや我らの兵は壊疽におびえる必要はない』
添えられていたのは、宝石のように無色透明なガラス瓶だった。
エリックは戦慄した。これが「黒の水」に由来する禁忌の産物であることは、鼻を突く異様な薬品臭で直感できた。こんなものを使えば、あの「掟」を破ることになる。ドラゴンが、このエストラ王国を焼き尽くすかもしれない。
だが、振り返れば、そこには傷が化膿し、熱に浮かされ、泥のように死んでいく若者たちが果てしなく横たわっている。
数日の葛藤の末。エリックは深夜、誰もいない診察室で、震える手で小瓶の栓を抜いた。
鼻を突く異質な匂い。それは、彼が知るどの薬草とも、酒精とも違っていた。
(一滴。一滴だけでいい。もしこれでドラゴンが来るのなら、私一人が死ねば済むことだ)
彼は窓の外の、静まり返った闇夜を何度も振り返った。雲の切れ間にドラゴンの影を探し、心臓の鼓動が耳元でうるさく跳ねる。
生唾を飲み込み、エリックは治療の際に鋸で怪我をした、自らの指先の赤く腫れた傷口に、その雫を落とした。
触れた瞬間、焼けるような痛みが走る。
エリックは声を殺してのけ反り、すぐに窓にしがみついて空を仰いだ。今にも天を割って、ドラゴンが自分を噛み殺しに来るのではないか。全身の毛穴が開き、冷や汗が背中を伝う。
一分。五分。十分。
夜は静寂のままだった。遠くで馬がいななき、風が木の葉を揺らす音だけが聞こえる。エリックは膝の震えを抑えながら、自分の指先を凝視した。
(……来ない。ドラゴンは、現れない……!)
数時間後、赤く熱を持っていた指先には、驚くべき変化が起きていた。痛みは消え、腫れは引き、傷口の膿は乾いて腐敗の進行が止まっている。それは、草根木皮を煎じたこれまでの薬では、決して到達することのできない「強制的な静止」だった。
エリックは、肺にあるすべての空気を吐き出すように、深く、長く安堵の息をついた。
(この薬を使ってもドラゴンは来ない。これほど透明なのだ、もはや「黒の水」ではないということだろう。命を救うためならば、慈悲深いドラゴン様も許してくれるに違いない)
(もし、大勢に使うことが禁忌だとしても、いざとなれば私の命一つで許しを請おう。きっとそれで、兵たちは救われるはずだ)
自分を騙すための甘い言い訳を積み上げ、エリックはついに少年兵の枕元に立った。
「大丈夫だ、これで助かる。もう脚を切らなくていいんだぞ」
エリックが、泣きじゃくる少年兵の傷口にその薬を落とそうとした、その瞬間――。
――夜が、真昼のように白く染まった。
屋根が吹き飛び、巨大なドラゴンの影が病院を見下ろしていた。
カイルやテオの時の「ため息」ではない。大気を震わせ、存在そのものを否定するような、峻烈な「怒り」の咆哮。
エリックは腰を抜かし、叫んだ。
「待ってくれ!
許してくれ!
私はただ、彼らを救いたいだけなんだ!
罰なら私一人に……!」
だが、ドラゴンはエリックの言葉など一顧だにしなかった。
ドラゴンが見ていたのは、エリックという「点」ではない。その薬がもたらす、不自然に生かされた兵士たちと、それによって泥沼化し、永遠に続く戦火の未来だった。
ドラゴンが大きく顎を開く。
放たれたのは、すべてを無に帰す青白い業火だった。
「あああああ……っ!!」
エリックの目の前で、救うはずだった若者たちが、彼を信じていた少年兵が、希望とともに炎の中に消えていく。
ドラゴンは、絶望に打ちひしがれ、煤にまみれて膝をつくエリックを一度だけ冷たく見下ろすと、その巨大な翼を広げた。その進路は、エストラの王都ではない。この「毒」を精錬し、他国へバラ撒いた元凶――レギウム帝国の方角へ。
ドラゴンの炎が消えた後、そこには音のない灰の世界が広がっていた。
エリックの手の中には、熱で歪み、無残に砕け散ったガラス瓶の破片だけが残されていた。
かつて救済の輝きを放っていた破片は、今や自分の愚かさをあざ笑う牙のように、エリックの掌を切り裂く。
彼はまだ知らない。自分が「禁忌を盗んだ」のではなく、レギウム帝国の王座でワインを傾ける男たちによって、ドラゴンを呼び寄せる「生贄」として踊らされていた事実に。
鉄屑
レギウム帝国の首都は、雲を突き抜ける険峻な山脈の頂に立つ白亜の城塞だった。皇帝フリードリヒ・レギウム・ヴァンドルフは、眼下に広がる雲海を眺めながら密使からの報告を聞き、作戦の成功に薄く笑みを浮かべる。
「陛下、エストラの野戦病院は跡形もなく灰となりました。ドラゴンは我らが放った『毒』に見事に食いつき、東の国境に現れたとのことです」
「フッ……愚かなエストラ人が上手く動いてくれたな。あの戦況であれば、お人好しの医者にとって、あの薬はさぞ希望に満ちて見えたことだろう」
ひとしきり嘲弄を終えると、彼は椅子の背にもたれ、組んだ指の上で鋭い視線を研ぎ澄ませた。感情の失せた声で、密使に先を促す。
「それで、実験場からの報告は?」
「はい。汲み上げた『黒の水』を精錬し、新型の火薬へと配合しました。その爆圧は従来の数倍に達しております。この新型榴弾を使用すれば、これまで貫くことすら叶わなかったドラゴンの鱗も、鋼鉄の礫となって間違いなく穿つことができるでしょう」
フリードリヒは、手元にある計算書を愛おしそうに撫でた。
彼が以前侵略した「黒の水が湧き出る沼地」のある小国は、今や帝国の実験場と化している。黒の水が無限にあることはもちろん、もしドラゴンの怒りを買うようなことがあっても、首都から遠く離れたあの地に現れるだけだ。この難攻不落の山頂まで、ドラゴンの爪が届くはずがない。
その間に、自分たちは黒の力で鉄を叩き、ドラゴンを屠る武器を揃える。既に、実験場で大量生産された新型榴弾の第一陣は、この帝都にも届いているのだ。
「これで、あの忌々しいトカゲに怯えることもなくなる。帝国がこの世界を掌中に収めるのも時間の問題だな」
フリードリヒは不敵な笑みを浮かべ、杯を掲げた。その場には、彼の野望を称え、少しでも恩恵に預かろうとする貴族たちが群がっていた。
「流石は陛下だ!」
「素晴らしい!
まさしく人間の知性の勝利ですな!」
「あの大トカゲの首を城門に飾るのが楽しみです」
だが、その傲慢で愚かな歓喜の声は、唐突に絶望へと塗り潰された。
雲海が割れ、一頭、また一頭と、見たこともない数のドラゴンの群れが姿を現したのだ。それらは山脈を囲うように旋回し、一斉に炎を吐き出した。
ドラゴンの放つ炎弾は、地面に触れると同時に巨大な爆発を起こし、無残にも辺り一帯を瞬く間に火の海へと変えていく。
「……なっ、何をしている!
撃て!
撃ち落とせッ!」
フリードリヒの絶叫が響く。
だが、彼が誇った鉄の大砲が火を噴く前に、ドラゴンの爆炎が帝都を飲み込んだ。山脈の裾野に広がる街が、兵器工場が、何万という民が、一瞬で灰へと還っていく。
それは「戦争」ではない。害虫の巣を焼き払うような、淡々とした「清掃」だった。
そして、燃え盛る帝国の絶景に絶望するフリードリヒの前に、一頭の巨大なドラゴンが音もなく舞い降りた。城の尖塔が、その巨躯の重みで無残にひしゃげる。
「……ま、待て!
来るな!
この、化け物め!」
フリードリヒは、自ら開発を命じた最新鋭の大型銃を手に取った。装填されているのは、黒の力で精製された、唯一無二の完成された榴弾。
彼は震える手で引き金を引いた。
――轟音。
放たれた榴弾は、一直線にドラゴンの眉間へと突き進む。
だが、ドラゴンは瞬き一つしなかった。弾丸が到達する直前、ドラゴンは傍らに転がった石材の瓦礫を、尾の一振りで軽々と弾き飛ばしたのだ。
ドォォォォンッ!
榴弾は瓦礫に当たり、空虚な爆発音と共に霧散した。
ドラゴンはその卓越した知力により、飛来する弾丸の速度、火薬の性質、そして破壊力を、放たれた瞬間に理解し、最適解をもって対応したのだ。
「……そんな、馬鹿な。……私たちが一生をかけて積み上げた英知が、ただの瓦礫一つに……」
フリードリヒは腰を抜かし、手に持った銃を落とした。
背後の貴族たちは、さっきまでの威厳をかなぐり捨て、床に這いつくばって命乞いを始めた。
「お助けください!」「私は反対だったのです!」「金ならいくらでも……!」
ドラゴンは、醜く鳴き喚く「知的な獣」たちを、黄金の瞳で静かに見据えた。
情けも、憎しみもない。ただ、愚かにも禁忌に触れ、この星の寿命を食い潰そうとした種への、最終的な「処置」。
ドラゴンが大きく顎を開く。
フリードリヒが見た最後の光景は、すべてを白く塗り潰す、慈悲なき業火の輝きだった。
* * *
翌朝。
大陸で最も広大な土地を支配していたレギウム帝国の領土は、そのすべてが焦土と化していた。文字通り、一つの国家が地図から消え去ったのだ。
巨大な黒煙が、遥か遠く、エストラ王国の空をも覆う。
運よく帝国の外にいたことで生き延びた人々は、空から降る「帝国の灰」を浴びながら、頭上を過ぎ去る無数のドラゴンを、ただ地面に額を擦り付けて見送った。
最後に一頭のドラゴンが、低空をゆっくりと掠めていく。
その静かな飛翔は、言葉よりも重く、人類の魂を打ち据えた。
誰からともなく、人々は膝を折り、天に向かって祈りを捧げた。自分たちの傲慢を恥じ、正しき強者の意思を汲み取る。
人間はすべての獣に勝る知恵を持つ、神に近い存在などではない。
ドラゴンの前では、力なき「ただの獣」でしかないのだと。
人間という獣
煙が消えた。ただ、それだけのことだ。
空が青いのは、煤が払われたから。
風が通るのは、鉄の壁が崩れたから。
地上の人間たちが地に額をつけ、何かを唱えている。私を「神」と呼び、許しを請うているようだ。
……滑稽なことだ。
お前たちは、自分より強い力を「神」と定義しなければ気が済まないらしい。
自分たちこそが生命の頂点であり、それを超えるものは超自然的な存在でなければならない……その思考の根底にあるものこそが、お前たちを滅ぼしかけた「傲慢」そのものだということに、まだ気づかないのか。
私は神ではない。お前たちを裁く権利もなければ、救う義理もない。
私はただの、羽を持つ獣だ。
腹が減れば食い、眠たくなれば目を閉じる。
お前たちが「黒の水」と呼ぶ力の使用を拒んだのは、正義感からではない。
ただ、その煙が私の鼻を突き、数百年後のこの星が、私の眠りには少しばかり不向きな場所になると知ったからだ。
お前たちが石を積み上げ、鉄を叩き、何やら複雑な理屈を捏ねていたことも、私には道端のアリが巣を作っているのと大差なく見えていた。
アリが巣を作るのは構わない。
だが、その巣が森全体を枯らす毒を撒き散らすというのなら、私はただ、その巣を踏み潰す。
そこに憎しみはない。ただの「片付け」だ。
祈る必要などない。
私を崇めるその時間は、お前たちが生きるための糧を探す時間に充てるべきだ。
私はお前たちの王でもなければ、守護者でもない。
お前たちが、お前たちの領分……ただの、弱く、小さな獣としての分をわきまえてさえいれば、私はお前たちの存在など、明日には忘れているだろう。
強いものが偉いわけではなく、賢いものが尊いわけでもない。
ただ、この星の巡りの中で、過不足なく生き、死ぬ。
それが、私という獣が辿り着いた、唯一の理だ。
……ようやく、静かになった。
祈りの声も、やがては生きるための呼吸の音に変わるだろう。
私は、翼を広げる。
お前たちを監視するためではない。ただ、風が心地よいからだ。
お前たちも、せいぜい静かに、身の丈に合った生を謳歌するがいい。
再び、この星が「ただの星」として回り続ける。
私は、ただそこに在る。お前たちと同じ、ただの獣として。


