Novel

創造主による魔物観察日記

始まり

数万年前、人間の集落に「光る赤子」が産まれた。
それが私だ。

後の世に「魔力」と呼ばれることになるその光に、人々は驚き、恐れ、そして赤子を「神の子」として崇めた。

しかし、三年ほど経った頃、私の母は衰弱して死んだ。
今ならわかる。
強すぎる魔力を持つ私の傍に居続けることは、魔力を持たない普通の人間にとって、あまりに過酷な環境だったのだ。

母と同様に、父や集落の人間たちも次々と衰弱していった。
私を恐れた彼らは、ついに私を集落から離れた涸れ井戸の底へと捨てた。

わずか三年の命ではあったが、私は自分が集落の人間とは全く異なる存在であると自覚していた。
明らかに他の子供よりも成長が早く、肉体的にも精神的にも、そして知能的にも優れていたからだ。

人間は生命を維持するために飲食を必要とするが、私は食事も水もなく生きていくことができた。
集落では与えられた分を口にしていたが、狩りが上手くいかない時や、食料の乏しい冬の時期に何も食べずとも、私の健康には何の影響もなかったのである。

だから、井戸に落とされても餓死することはなかった。
わずかな光しか届かない暗い井戸の底であっても、私自身の身体が発光しているため、不自由はない。

そして、私は捨てられたことを恨んでもいなかった。
自分の存在が集落の人々を弱らせていたのだ。捨てられて然るべきだし、私自身、あの場所から離れたいと願っていた。

しかし、捨てられて数日が経った頃、ひとつの問題が発生した。

――あまりにも、暇なのだ。

最初のうちは現状を把握したり、父や集落の人々に思いを馳せたり、三年間過ごした思い出を反芻したりもしてみた。
だが、そんなセンチメンタルな気持ちは長続きしない。

周囲を見渡しても、そこにあるのは暗く狭い井戸の底だけだ。
視界に入るものといえば、湿った土、石ころや木の枝。自分よりも前に、食い扶持を減らすために捨てられたであろう人間の骨。
涸れ井戸とはいえ僅かに湧き出ている水。
そして、わずかな光を栄養に育つ苔やキノコ。

あまりにも、やることがなかった。

そして退屈に耐えかねた私は、水遊びをすることにしたのだった。

スライム

落とされた涸れ井戸の底の隅に、コポッコポッという頼りない音を立てながら、かろうじて水が湧き出ている場所があった。周りの土を溶かし、茶色く濁った泥水の水たまり。
暇を持て余した私は、その水たまりで遊ぶことにした。

とりあえず手足でチャプチャプと数時間触れ続けていると、次第に水の様子が変わっていくことに気がついた。
茶色かった泥水が、心なしか黄色味を帯びてきたのだ。
それが面白くなり、ジャブジャブと踏みつけたり、木の棒でかき混ぜたりと、色々なことを試してみた。

水はさらに変化を続け、茶色から黄色へ、そして黄色から緑色へと色を変えていく。さらに薄っすらと発光し始めた時、私はようやく理解した。
これは、自分を覆う「光」が影響しているのだと。

そこからは意識的に、水へ光を流し込むようなイメージで木の棒を動かした。
今思えば、この遊びこそが、私の魔力コントロールの原点だったのだろう。

魔力を注ぎながらかき混ぜ続けた水たまりは、やがて淡く発光する青色へと変貌した。さらに混ぜていると、棒から伝わる手応えが変わってきた。トロトロとした感触になり、木の棒にまとわりつくような重さを感じ始めたのだ。

それが楽しくて、私は時間を忘れて没頭した。
気づけば丸一日以上、水遊びを続けていた。
ふと、握り続けていた木の棒から血が滴っていることに気がつく。
井戸に落とされた衝撃でも傷ひとつ付かなかった私の身体だが、二十四時間も棒を握りしめていれば、流石に皮も剥けるらしい。

痛みで我に返った私は、少し休もうと、その木の棒を水たまりに放り投げた。

――それが、世界に初めての「魔物」が産まれ、私がその創造主となった瞬間だった。

棒から滴った血が水面に触れた刹那、淡く光る青い水たまりが意志を持ったように動き出し、自らが穿った穴から這い出してきたのだ。
粘り気のある、直径十五センチほどの水の塊。
それが狭い井戸の底を、ゆっくりと這い回っている。

最初は少しだけ恐怖を感じたが、それが自分の手で作り出されたものであることは明白だった。
実害はなさそうだし、何より妙な可愛げがある。
孤独な井戸の底で一人きりだった私は、この「水の塊」の誕生を心から喜んだ。

それからの数日は、その塊を観察する日々だった。
後の世で「スライム」と呼ばれることになるそれを、私は「ベチャ」と名付けた。
ベチャベチャしているから、という安直なネーミングだ。

ベチャの見た目は直径十五センチほどの青い塊。
水たまりだった頃の発光は消えていたが、青く透明な身体の中に、淡く光る小さな「赤い玉」が見える。
おそらく、最後に混じった私の血を核として形成されたのだろう。
身体からは投げ入れた木の棒が突き出しており、それは常に進行方向の逆側にあった。この尻尾のような棒のおかげで、私はベチャの前後を見分けることができた。

この赤い玉こそが、後の世でスライムの「核」と呼ばれ、唯一の弱点とされる部位である。

ベチャは特に何をするでもなく、井戸の底や壁を這い回っていた。壁を伝って外に出られるのではないかとも思ったが、一定の高さまで登ると、決まって戻ってくる。
餌が必要かと思い、周囲の苔やキノコを近づけてみたが、食べる様子はなかった。
元が水の塊なのだから、物を食べるはずもないと、少し自分に呆れながらも観察を続けた。

数日後、いつも這い回っていたベチャが動きを止めた。
心配になって近づくと、ベチャは生誕の地である水たまりに戻っていた。
どうやら水を補給しているらしい。
食事は不要だが、一定の水分を保つ必要はあるようだった。

「ベチャは水だけで生きていける」
そう結論づけてさらに数日が経った頃、ふと思いついた。
――もし、補給する水に「魔力」を込めておいたら、どうなるのだろうか。

動きが素早くなるかもしれない。大きくなるかもしれない。あるいは手足が生えてくるかもしれない。そんな子供らしい好奇心で、私は実験を開始した。

まず、湧き水を少しだけ分けた小さな溜まりを作る。魔力を持った水をベチャが拒絶する可能性を考えたからだ。
取り分けた水に少しずつ魔力を注いでいく。
ベチャを作った時のように、水は色を変え、発光する青い液体が出来上がった。これ以上魔力を注ぐと粘度が上がり、ベチャが飲むのに苦労するかもしれないと考え、程々で止めておく。

ちなみに、この淡く光る青い水は、後の世で「魔水(ますい)」と呼ばれ、魔法の媒体や薬の材料として珍重されることになるのだが、この時点ではただの「スライムの餌」に過ぎなかった。

準備が整い、ベチャが水を求めるのを待った。
もし普通の水に向かうようなら誘導しなければと考えていたが、それは杞憂に終わった。
ベチャは真っ直ぐに魔水へと向かってきたのだ。
どうやら真水よりも魔力を含んだ水を優先するらしい。

心なしか嬉しそうに見えるベチャに愛着を覚えつつ、変化を期待して観察を続けた。
そして、予想外の――いや、予想以上のことが起きた。

魔水を補給したベチャが、突然プルプルと震えだしたのだ。
心配になり、すぐに引き離そうとした私の前で、信じられない光景が広がった。

ベチャが分裂し始めたのだ。

波打つようにグワングワンと形を変え、中の赤い核が二つに分かれていく。震えが収まると、左右の波が同じ高さで止まり、二つの核がそれぞれの中心に落ち着いた。そしてゆっくりと身体が切り離され、ベチャは完全に二匹となった。
何事もなかったかのように、二匹はまた這い回り始める。

これが、世界で初めてのスライムの「増殖」であった。

便宜上、木の棒がある方を「ベチャ一号」、何もない方を「ベチャ二号」と呼んでみたが、ここから加速度的に増えていく彼らにとって、呼称はあまり意味をなさなくなった。

こうして、世界初の魔物であり、すべての魔物の始祖となる「スライム」が誕生したのである。

ゴーレム

私は今、深刻な問題に直面していた。

初めてスライムが分裂してから数ヶ月が経ち、その数は爆発的に増えていた。
今や十六匹ものスライムが、井戸の底を所狭しと這い回っている。
また、人並み外れて成長の早い私の身体も、困った事態を引き起こしていた。

――狭いのだ。

かつてベチャと小柄な私だけだった頃は、この涸れ井戸に何の不満もなかった。
だが、成長に伴い私の身体は大きくなり、一方で分裂を面白がって「魔水」を与えすぎたスライムたちは、とてつもない勢いで増殖を続けている。
このままでは私がスライムに押し潰されるか、私がスライムを踏み潰してしまうかの二択だ。

身体が大きくなったとはいえ、せいぜい人間の十歳児程度。
三歳児としては驚異的な発育だろうが、垂直の井戸を這い上がるほどの筋力はない。
枯れているとはいえ、元は井戸だ。
三十メートル以上の深さがある以上、外に出ることは諦めるしかなかった。

ならばと横穴を掘ろうにも、掘り出した土をどこへ捨てるかが問題になる。
三十メートル上まで土を運び出す術はなく、そもそも穴を掘るための道具すら持っていない。
まさに絶望的な状況だった。

そんな時、天の恵みというべきか、凄まじい大雨が降り出した。
今までも雨は降ったが、地下三十メートルの底にまではさほど影響はなかった。
しかし、今回の雨は格別だった。

みるみるうちに井戸の中へと水が溜まっていく。
スライムたちは飲み込まれまいと壁を這い上がり、私は水に浮く形で、井戸の底から五メートルほど上昇した。
水位はそこでぴたりと止まった。

びしょ濡れになりながら周囲を見渡すと、井戸の壁面に小さな窪みを見つけた。
大きな石が外れた跡だろうか、歪な形ではあるが、奥行き一メートルほどの空間がある。
溜まった水が引くには時間がかかるだろうと考え、私はひとまずその窪みに腰掛けた。

スライムたちはいつの間にか壁を這うのを諦め、プカプカと水面に浮かんでいる。
元は水の塊なのだから溺れる心配もないかと安堵し、一休みしていると、ふと思いついた。

この窪みを掘り広げれば、空間を確保できるのではないか?

今、水没している五メートル分の空間に掘った土を捨て、埋めていけばいい。
横へ掘り進めれば相応の広さを確保できるし、そこから斜め上方へ掘り進めば、いつかは地上へ出られるのではないか。
あまりにも安直な発想ではあったが、私は横穴を掘ることに決めた。
道具はないが、怪我をしてもすぐに治る身体だ。時間だけは贅沢にある。
私は素手で土を削り始めた。

数日間掘り続け、ようやく横になれる程度の穴を空けることができた。
だが、そこでまたしても大きな問題にぶつかった。

――飽きたのだ。

ただただ茶色の土を掘り続ける作業。
振り返れば、スライムたちは楽しげに壁を這い回っている。
大雨で溜まった水もいつの間にか地面に浸透して消え去り、水遊びも増殖実験もできないでいる。
あまりにも単調でつまらない作業に、私は嫌気がさしてしまった。

そこで私は、拗ねたついでに「土遊び」をすることにした。
土を握り、丸め、捏ねて、形を作る。

最初は丸い泥団子を作る程度だったが、数日経つ頃には、不格好ながらも動物や人間の形を作り出していた。
後の世で人間たちが「ハニワ」と呼ぶものの一部は、この時の私が作り出した人形で構成されている。

穴掘りに飽きて土人形を作り続け、さらに数ヶ月が経ったある日。
最初のスライムであるベチャに、異変が起きた。
(ベチャだけは、あの木の棒が刺さっているため判別できるのだ)

誕生からおよそ一年。
最近は魔水を全く飲みに来なくなり、元々ゆっくりだった動きがさらに鈍くなっていたため、覚悟はしていた。
ベチャは私の目の前までやって来ると、完全に動きを止めた。
そして、悲しみに暮れる私の前でパチンと弾け、後にはひとつの真っ赤な石が転がっていた。

後の世で「魔石」と呼ばれるその石は、スライムの核が結晶化したものである。
私は涙を堪えながら、ベチャの魔石を土に埋め、あの木の棒を立てて小さな墓を作った。

それからさらに数ヶ月。
ベチャ以外のスライムたちも次々と寿命を迎え、魔石へと変わっていった。
もちろん魔水によって新しく増え続けているため、総数はもはや数え切れないほど――六十匹近くまで膨れ上がっている。

ベチャ以外の個体は見分けがつかず、可愛げはあるものの、ベチャほどの愛着は持てなかった。
そのため、新たに墓を作る事は無く、彼らが残した魔石は一箇所にまとめて置いておくことにした。

そして、いつものように虚しく穴を掘っていた時のことだ。

ひとつの泥人形が、動き出した。
ずんぐりむっくりの身体に手足を付けただけの、不細工な人形。
それはゆっくりと歩き出し、ベチャの墓からあの木の棒を引き抜いたのだ。
その背中には、真っ赤な魔石が埋まっていた。

泥人形はまたゆっくりと歩き、私の目の前に立った。
直感的に理解した。あの魔石はベチャのものだ。
墓の近くの土で人形を作った際、無意識にベチャの魔石を巻き込んでしまっていたのだろう。
念のため墓を掘り返してみたが、やはり魔石は見当たらなかった。

私は、ベチャが形を変えて生き返ったように感じ、言葉にできないほど嬉しかった。
もっとも、もうベチャベチャはしていないので、この泥人形を「ゴツ」と名付けることにした。
ゴツゴツとした身体をしていたからだ。相変わらずのネーミングセンスである。

ともあれ、これが世界に初めて「ゴーレム」が誕生した瞬間だった。
後の世では巨大なゴーレムがダンジョンを守護していたりするが、始祖であるゴツの身長は、わずか三十センチほどであった。

ゴツはスライムたちとは違い、意思の疎通ができるようだった。
正確には、こちらの指示を理解し、忠実に実行する能力があるという感じだ。
今は私の隣で一緒に穴を掘ってくれている。
元が泥人形ゆえ、疲れも痛みも知らず、一日中働き続けてくれる。

特別に力が強いわけではないが、穴掘り程度の作業なら難なくこなす。
私はゴツに穴掘りを任せ、ゴーレムを量産することにした。
寿命を迎えたスライムたちの核――魔石は、山のように残っている。これを使わない手はない。

様々な泥人形を作り、魔石を埋め込み、ゴーレムへと変えていく。
掘削に適した平たい手を与えたり、ゴツよりも一回り大きな体躯を試したり。試行錯誤しながら形を創造する時間は、今までの退屈が嘘のように楽しかった。

ベチャやゴツは偶然の産物だったかもしれない。だが、自らの手で「望むままに創造する」悦びを知ったのは、間違いなくこの時だったのだ。

マイコニド

ゴツやゴーレムたちの献身的な働きにより、涸れ井戸から横へと掘り進めた穴は、かなりの広さと奥行きを持つに至った。
あれからさらに数を増やしたスライムや、新しく作り出したゴーレムたちが皆で寛いでも、十分な余裕があるほどの広さだ。

せっかくなので外に出られるまで掘り進めようと、私はゴーレムたちにさらなる指示を与え、自身はスライムの増殖とゴーレムの追加生産に精を出していた。

井戸に捨てられてから、もう何年が経過しただろうか。
ある日、ゴツが天井を掘り抜いた瞬間、そこから眩いばかりの光が差し込んできた。
後世において「ダンジョン」と呼ばれることになる巨大な縦穴が、初めて地上と繋がった瞬間であった。

ゴツたちと掘り進めた道は、元の涸れ井戸からは相当離れた場所にまで達していたようで、出口の周囲には深い森が広がっていた。
これだけ離れていれば、私を捨てた集落の人間もいないだろうと、少しだけ安堵した。
彼らに恨みはないが、再会したいと思うほどの愛着もないのだ。

誰かに見つかるのも面倒だった私は、せっかく地上に出たというのに、そそくさと住み慣れた穴倉へと戻っていった。
これから私は数万年という時を生きることになるのだが、その大半をこの穴倉で過ごし、たまに森を散歩する程度の外出しかしないことになる。

それからさらに数年が経過した、ある日のことだ。
私はいつものようにゴーレムたちに拡張の指示を出し、出口付近で外を眺めていた。すると、ゴツが私の指示に反して、こちらに向かって歩いてきた。

ベチャの時と同じだ。私にはすぐにわかった。
ゴツもまた、寿命を迎えたのだ。

ベチャよりも何年も、何年も長く生きたゴツは、三十センチほどの小さな身体でゆっくりと私の前まで歩み寄る。
その頭には、あの思い出の木の枝が刺さったままだ。
生まれた時は鮮やかな赤色だった背中の魔石は、今や普通の石と見分けがつかないほど黒ずんでいた。

ゴツは私の目の前で、溶けるようにしてダンジョンの土へと沈んでいった。
これが、ゴーレムの「死」なのだと理解した。
ゴツはこのダンジョンの一部、その土へと還ったのだ。
これからもゴツはこの場所の一部として在り続けるのだと思うと、寂しさは拭えないものの、どこか誇らしい気持ちもあった。

ゴツ亡き後も他のゴーレムたちは働き続け、私は魔水を作り、死んだスライムの核で新たなゴーレムを生み出す日々を繰り返していた。

そんなある日のことだ。
ダンジョンの出口付近で、何かが蠢いている気配を感じた。
ゴーレムたちは地下深くで作業中であり、この場所には私の魔力の影響か、野生動物の類は一切寄り付かない。
不思議に思った私は、久々にゴツが土に還った出口付近へと向かった。

そこに居たのは――巨大なキノコだった。
体長は三十センチほど。ずんぐりむっくりとした体型には、どこか既視感を覚える。なんとそのキノコには足が生えており、不器用な足取りでこちらに向かって歩いてくるではないか。

これが後世において「マイコニド」と呼ばれる植物モンスターの、そして、真の意味で「命」を宿した魔物の誕生であった。

おそらく、ゴツが溶けた土に私の魔力が宿り、そこにゴツの頭に刺さっていた木の枝――かつて井戸に生息していたキノコの胞子が根付いて、変異を遂げたのだろう。
この事象から、私はひとつの予測を立てた。
「ゴーレムが土に還り、魔力が蓄積された土で育つ植物は、魔物化するのではないか」

ここから私は様々な実験を行い、この世界に「魔物」を加速度的に増やしていくことになるのだが……それはまた、後日の話だ。

まずは、目の前のマイコニドの観察である。
ゴツの生まれ変わりのようなシルエットだが、腕はなく、足で移動することしかできないようだ。
動きは極めて緩慢で、おそらく私が気付くずっと前から、一生懸命にこちらを目指して歩いていたのだろう。
ゴツが土に還った場所から、こちらに向かって点々と小さな足跡が伸びていた。

その健気さがたまらなく愛おしくなり、私はマイコニドに抱きついた。
その瞬間、マイコニドの傘から「ボフン」とキラキラ光る胞子が放出された。

後に判明することだが、この胞子は通常の生物にとっては猛毒であり、マイコニドはこれによって仕留めた獲物を苗床にして増殖する生態を持っていた。
当然、私に毒など効くはずもない。あの時の胞子は、きっと彼なりの「喜び」の表現だったのだと思う。

また名前を付けてあげようと考えたが、ふと見ると、足元にはすでに新たなマイコニドの幼体が産声を上げようとしていた。
このペースで増えていくのであれば、個体を見分けるのは不可能に近い。

私はこの時点で、魔物に固有の名前を付けることを、潔く諦めたのだった。

植物系魔物

マイコニドが産まれてから、かなりの年月が経過した。
地上への出口を見つけて以来、私はひたすらにダンジョンを深く、広く掘り進めさせてきた。

掘り出した土はゴーレムの材料とし、寿命を迎えたゴーレムたちは外へ出て、出口を覆うように積み重なって死んでいった。その結果、外から見たダンジョンは、小さな山の中にある洞窟のような佇まいとなっていた。
内部には広大な地底空間が広がり、そこは今やスライムとゴーレム、そしてマイコニドで溢れかえっている。

さらに探索を進めた結果、私たちは巨大な地底湖を発見した。
そこで私は名案を思いつく。
これまでは雨水や湧き水を少しずつ魔水に変えてスライムに与えていたが、この湖すべてを魔水に変えてしまえばどうだろうか。
魔水に集まる彼らの習性を利用すれば、管理せずとも勝手に増殖してくれるのではないかと考えたのだ。

この試みは見事に成功し、これ以降、スライムは自動で増え続けることとなった。
さらに、この地底湖を水源として魔水が地上へと漏れ出し、地上の人間たちはそれを魔法の媒体や薬の材料として珍重するようになる。
また、分裂したスライムが水脈に乗って外へと流れ出したことで、この森で野生のスライムが発生し始めた。
これが、初めてダンジョンの外に魔物が現れた瞬間であった。

ゴーレムの生産についても、効率化が進んだ。
力尽きたスライムが残す魔石を回収する個体や、泥人形そのものを作り出す個体など、役割分担による増産体制が整ったのだ。
ただし、ゴーレムたちが作る人形はどれも画一的な形をしていたため、特別な意匠を持たせたい時だけは、今も私自身が腕を振るっている。

こうしてダンジョン内の運営が軌道に乗り、暇を持て余した私は、かつての仮説を試すことにした。
「魔力が蓄積された土で育つ植物は、魔物化するのではないか」という問いだ。

まずは、山となっている出口付近から魔力を含んだ土を回収した。ゴーレムたちが溶けて積み重なったその土は、数万年後の人間たちですら解明できず、「付近で植物を育てると危険」と認識される代物――後世に語り継がれる「魔土(まど)」である。

まず、マイコニドの量産は容易だった。
暗く湿った部屋の壁に魔土を塗り、そこでマイコニドに胞子を放出させればいい。ただ、この方法で産まれた個体は三十センチほどに留まった。
後に、生物を苗床にすることで巨大化する生態が判明するのだが、この時の私はまだそれを知らなかった。

一通り満足した私は、新たな植物で実験しようと考えたが、洞窟内には苔かキノコくらいしかない。
仕方なく、私は久々にダンジョンの外へ出ることにした。

外に出るにあたり、懸念がひとつあった。この「発光する身体」だ。
井戸に捨てられた三歳の頃から、私の肉体はずいぶんと成長し、今や二十歳前後の青年の姿となっていた。数十年が経過しても、この年齢を境に老化はぴたりと止まっている。
そんな成人の身体になってもなお、私の肌は光り輝いていた。

しかし、それを解決したのも例の地底湖だった。
膨大な魔力を湖に流し込み続けた結果、私は自身の魔力を完全に制御する術を身につけていたのだ。
光を体内に押し留めることで、目立たずに森を探索できるようになったのである。

森では、ドングリや木の実を拾い、いくつかの花や野草を、根を傷つけぬよう丁寧に採取した。
探索を終えてダンジョンに戻り、窮屈な魔力抑制を解いて光を開放する。
そして地下の実験場で、採取した植物を魔土に植えてみた。

しかし、どうにも上手くいかない。
ドングリからは芽が出たもののそれ以上は育たず、花や草にいたっては枯れてしまった。
仮説が間違っていたのかと思案し、私はようやく気がついた。

――ここは、地下なのだ。

このダンジョンの中は、本来は完全な闇だ。
スライムやゴーレム、マイコニドはたまたま光を必要としない生態だったに過ぎない。
私自身が常に発光していたため、「周囲が暗い」という当たり前の事実に、今の今まで無頓着だったのだ。完全に盲点であった。

植物には、日光が必要なのだ。

私は実験場を外の「山」へと移した。
ゴーレムたちの亡骸でできた魔土の山に植物を植え、仕上げに魔水を与えて見守った。

すぐに結果が出たのは草花だった。
もとは十センチほどだった背丈がぐんぐんと伸び、大きなものは一メートルを超えるまでになった。日光を求めて自ら身体を揺らし、花の中には鋭い牙や口のような器官を持つものや、葉が刃物のように鋭利化した個体も現れた。
後に、これらは「マンイーター」や「ソードウィード」と呼ばれ恐れられる植物系魔物となるのだが、私が近くにいると野生動物が寄り付かないため、彼らが小動物を捕食する光景を目にするのは、まだ先の話となる。

彼らは根を張っているため移動はできなかったが、一方で、植えていた木の実も成長を見せた。
二メートルほどの若木になった頃、それは地面から自ら根を引っこ抜き、足のようにして左右に揺れながら歩き出した。
蠢く大樹、「トレント」の誕生である。

実験の成功に、私は深い充足感を覚えた。

あの涸れ井戸に捨てられてから、すでに百年ほどの歳月が流れていた。

晶光草

植物型の魔物が産声を上げてから、ダンジョンの出口に積み上がった「山」は、かなりの賑わいを見せていた。
私は自らの光を体内に押し留め、少し離れた木の上から、「マンイーター」や「トレント」たちの観察を続けていた。
彼らが動物を捕食する、その瞬間を見るためだ。

どうやら魔物たちは私の魔力を直接的な栄養源にできるようで、私がダンジョンの奥深くにいて魔力の供給が滞っている時にしか捕食を行わないらしい。
久々に外に出て彼らの「食べ残し」を見つけた時の、あの言いようのない残念な気持ちは忘れられない。
ゆえに、私はこうして隠れて観察するという手段を講じているのだ。

そして今、まさにマンイーターがネズミを噛み砕いた。
噴き出す血液さえ残さず飲み干していく。生き物が生き物を食らう――それはあまりに当たり前の光景だが、涸れ井戸に落とされて以来一度も目にすることのなかった「生命の営み」に、私は強く目を奪われた。

命が巡るとは、こういうことなのだ。
その美しさに感動すると同時に、自分はこの「命の螺旋」から外れた異物なのだと、改めて実感せずにはいられなかった。

観察を終え、木から降りようとした時、足元で一匹のスライムを発見した。
ダンジョンの外でスライムを見たのはこれが初めてであり、私はこの時初めて、地下水路を通じて彼らが森へと進出している事実を知った。
そして同時に、新たな発見もあった。

それは「魔物化していないが、魔力を帯びた植物」の存在だ。
地上に染み出した魔水を吸い上げたことで起きた現象だろう。
ゴーレムの死骸からなる「魔土」で育つのとは、また別の作用があるようだ。
実際、この草の周辺の土からは魔力を感じない。
染み込んだ水の魔力だけで成長したもののようで、自律して動くこともなく、特別な生態も持たない。
面白味を感じなかった私は、その草を放置してダンジョンへと戻った。

後の世で「魔草(まそう)」と呼ばれるこれらの植物は、一瞬で傷を癒やす魔法の薬「ポーション」の主原料となり、人間たちが命がけで採取に来るほどの至宝となるのだが――当時の私には、どうでもいいことだった。

ダンジョンの最奥に戻り、先ほどの捕食シーンを反芻する。
どうにかして、植物系の魔物をダンジョン内部で育てることはできないだろうか。
あの残酷で、しかしこの上なく美しい生命の循環を、我が家であるこの場所でも再現したかったのだ。

だが、これは難問だった。
先述した通り、ダンジョン内には日光が届かない。
植物が生きるためのエネルギーが根本的に不足している。
頭を抱えていた時、ふと森で見つけた「魔草」を思い出した。

「魔力」は、日光に代わるエネルギーになり得るのではないか。

しかし、その仮説は以前の実験で一度否定されている。
魔土に植えただけの植物は、ことごとく枯死したからだ。
悩む私の目に、ふと壁に生えた苔や、マイコニド化していないキノコが留まった。
それらは私が落ちてきた当初からそこにあり、今まで気に留めることもなかった存在だ。

不可解なのは、彼らが魔水を浴びているにもかかわらず「魔草」化していない点だ。
そこで私は、至極単純な新たな仮説を立てた。
「エネルギーが、決定的に足りなかったのではないか?」

ダンジョン外の植物は、日光で得たエネルギーに「魔力」を上乗せすることで変異した。
対して地下の苔やキノコは、今の乏しい環境で足りているため、魔力を取り込む必要がない。
ならば、日光を必要とする植物に対し、私が直接「日光の代わり」になるほどの魔力を注ぎ込んでみたらどうなるか。

私は、森で採取して保管していた花の種を一粒、掌に載せた。
魔水を作る時よりも慎重に、ゆっくりと、しかし濃密に魔力を注いでいく。
長い時間をかけて、種はパキパキと音を立てて芽吹いた。

成功だ。

喜びと同時に、その芽の異質さに驚愕した。
かつては薄茶色だった種からは、水晶のように透き通った双葉が伸びていた。
一切の色素を持たず、淡く、しかし確かに自ら発光している。

後に人間が解明するところによれば、この花は「晶光草(しょうこうそう)」と名付けられた。
日光を必要としないため葉緑素を失い、代わりに魔力を直接エネルギーに変換し、光を放出する特殊な生態を持つ。

もちろん、今の私がそんな学術的な理屈を知る由もない。
私はその美しい双葉を土へ移し、魔水を与えて慈しんだ。
やがて晶光草は、この世のものとは思えぬほど美しい花を咲かせた。

狂喜した私は、他の植物でも同様の実験を繰り返したが、不思議なことに、どのような種であっても最終的には同じ「晶光草」へと姿を変えた。
多様性が失われたことに少し落胆したが、美しいので良しとしよう。
私は増やした晶光草をゴーレムたちに命じ、ダンジョンの至る所に植えさせた。

こうして、永劫の闇に包まれていたダンジョンに、「光」が宿ったのである。

この光は日光と同じ波長を含んでいるようで、日光を求めて山にいたトレントたちが自らダンジョンへ戻ってくるようになった。マンイーターなどの植物系魔物も、今や問題なく地下へ移植できる。

これで、ダンジョン内でも生命のサイクルを構築できる準備が整った。
次の課題は、いかにして「動物」をこの地下へと招き入れるかだ。

虫型魔物

ダンジョン内に完全な生命のサイクルを構築するにあたり、最大の障壁となっていたのは「私の魔力」そのものだった。
あまりに強大すぎる魔力の気配に怯え、野生の生物が近寄ろうとしなかったのだ。

しかし、この問題は「晶光草」の誕生によって劇的な解決を見ることとなった。
晶光草には、周囲の空気に含まれる私の魔力を吸収・蓄積する性質があった。
彼らがダンジョンの至る所で発光し、魔力を吸い上げてくれたおかげで、外部へ漏れ出す私の気配が適度に抑制されるようになったのだ。

これによって、虫や小動物たちが恐れることなくダンジョンへ入り込むようになった。
植物系魔物たちの「餌」が自ら舞い込んでくる環境が整い、私は魔力を抑えて静かに眺めていれば、時折行われる生命のドラマ――捕食の瞬間を特等席で観賞できるようになった。一つの、大きな満足であった。

次なる課題は、植物たちの自律的な繁殖である。
現在の晶光草は、私が森で種を拾い、魔力を注いで芽吹かせ、手作業で植えることでしか増やすことができない。
この非効率な状況に、私はどこか違和感を覚えていた。
私が常にサイクルの一端を担い続けなければ回らない世界は、美しくないような気がした。

そう思い悩みながら観察を続けていたある日、一匹の蝶がすべてを変えた。
ここから、ダンジョンや森、ひいては世界の生態系が、私の手を離れて独自の鼓動を刻み始めることになる。

私はいつものように、マンイーターの捕食を眺めていた。
晶光草の影響で魔力による栄養補給が制限された植物型魔物たちは、野生の飢えを取り戻し、以前にも増してどん欲に獲物を狙っていた。
観察対象は、個体群の中でも一際巨大に成長した、私のお気に入りのマンイーターだ。
そこへ一匹の蝶が、フラフラと羽ばたきながら近づいていった。

ところが、その巨大なマンイーターは小虫など眼中にないのか、蝶を捕らえることはしなかった。
それどころか、自らの花から甘い蜜を出し、蝶に分け与えたのだ。
蜜を吸った蝶は、その身体に大量の花粉を付着させ、別のマンイーターへと飛んでいく。
受け入れ側の個体もまた、蝶を害することなく迎え入れた。

数日後、受粉に成功した個体の花が枯れ落ち、その付け根が紫色の妖艶な実を結んだ。
それを見た私は、深い感動に包まれた。
花とは本来、このようにして命を繋ぐものなのだ。
命は「食う、食われる」だけでなく、「共生し、協力する」ことでも螺旋を描いていくのだと知った。

これには、私が介入する余地などなかった。

始まりは、あの蝶だった。
魔力を含んだ蜜を摂取したことで、当然のようにその身体に異変が生じたのだ。
ひらひらと柔らかかった羽が、パキパキと音を立てて硬質化していく。
やがてそれは、薄い硝子細工のような透明な輝きを放つ羽へと変貌した。
後世に「クリスタルバタフライ」と呼ばれるその魔物は、花粉を運ぶだけでなく、体内で精製した魔力を鱗粉として撒き散らし、ダンジョン内の魔力を循環させる重要な役割を担うようになった。

この蝶の出現を皮切りに、虫たちの魔物化は一気に加速した。
他の魔物たちも、虫という存在の有用性に気づいたのだろう。
トレントは甘い香りの樹液を放って虫を誘い、受粉の対価として果実を分け与えた。
マンイーターもまた、蝶や蜂を「協力者」として認め、共生する道を選んだ。
そして、その魔物化した虫を捕食する肉食昆虫たちもまた、魔物へと変異していく。

魔物たちが私の手を離れ、自律的に増殖していく日々に、どこか一抹の寂しさはあった。
しかし、それ以上に「観察対象」が爆発的に増えたことが、私を慌ただしく、そして楽しい毎日へと連れ戻してくれた。

巨大化し、黒曜石のような光沢と硬度を持つ甲殻を得たカブトムシ。
腹部に一リットルもの蜜を貯蔵し、高速で飛び回る蜂。
五センチほどの小体ながら膨大な魔力を運び、土壌を整える蟻。
鉄のように頑丈で、シルクのようにしなやかな糸を吐く大蜘蛛。
地中で蓄積した魔力を掘り返し、豊潤な「魔土」を作り続ける巨大ミミズ。

本当に様々な虫たちが魔物化していった。

そうして、魔物化した虫たちが新たな環境を作り出し、その環境がまた新たな魔物を産む。
私の理想とした「完璧な世界」が、ダンジョンの中に広がり始めた。
そしてこの進化の波は、当然ながら虫だけに留まるはずもなかったのである。

魔物の世界

私が涸れ井戸に捨てられてから、一千年近くの時が流れた。
私の暇つぶしから始まった魔物の進化の歴史が、ついにここまで来たのだ。

魔水によってスライムが増え、
スライムの核によってゴーレムが生まれ、
ゴーレムによって魔土が作られ、
植物が魔物化して、その繁殖のために虫が魔物化した。

そして、魔物化の波はそれだけにとどまらない。

魔物ではなく、草花が魔力を溜め込んだ「魔草」については、既に説明したと思う。
植物の進化はそれだけではなく、トレントのように動き出すことはないが、膨大な魔力を蓄えた樹木「魔樹(まじゅ)」も生まれている。

魔樹はトレントと同様に、魔力を含んだ果実や木の実を実らせる。
そして、それを食べるのは虫だけではない。
果実を食べてその種を遠くへ運ぶ鳥もまた魔鳥となり、草食の動物たちも魔獣となって、この森を賑わせている。

さらに、魔物化した虫や草食の小動物は、次なる獲物となる。
その肉を食べた肉食の獣や爬虫類たちも、連鎖するように魔物と化していく。

長い年月をかけ、魔水は地面に深く染み込み、さらには川や地上の池にも流れ込んでいった。
そこに住む魚や両生類までもが、続々と魔物になっていく。

極彩色の羽を生やした鮮やかなカラス。
角が生えた大型のウサギ。
淡く光る水晶のような角を持つ鹿。
体毛が針のように尖った巨大な熊。
ダンジョン内を飛び回る巨大な蝙蝠。
泡のように膨れて浮き上がる魚。

多種多様な魔物たちが、長い年月をかけて私の手を離れて進化し、世界中へと広がっていった。

そうしてダンジョンや森を越え、世界中へと広がった魔物たちには、私の魔力を求めてダンジョンに帰ってこようとする習性があるらしい。
そのおかげで、ダンジョンと周囲の森はさらに賑わいを増していく。

かつてダンジョンの上にあった小さな山は、一千年の時を経て標高五百メートルを超えていた。
遠くから見てもその存在がはっきりとわかるほどにそびえ立ち、ダンジョン内部もまた、とてつもない広さになっている。

相変わらず日の光は入らないものの、土の中だというのに背の高いトレントたちが集まる深い森や、マンイーターなどの植物型魔物が群生する草原が広がり、それぞれの場所で新たな生態系を築き上げている。
もはや、ダンジョンの中に別の世界が生み出されていると言っても過言ではないほど、この場所は広大になっていた。

そうして、ダンジョンにひとつの世界が作られていく中で、私は不思議に思うことがあった。

一千年前、私が井戸に捨てられる前の出来事だ。

私は、なぜ捨てられたのか。

それは、私の周囲にいた人間たちが私の魔力に当てられ、衰弱していったからだ。
だが、これまでに様々な種の魔物が生まれたが、魔力によって強くなる生き物はいても、衰弱し弱っていった生き物は一匹も居なかった。

かつてダンジョンに生物が寄り付かなかったのは、私が発する魔力の光や、未知の存在への恐怖ゆえでしかなかったはずだ。
魔力そのものが、命を奪う毒であるわけではないはずなのだ。

ならば、なぜ人間だけが衰弱していったのだろうか。

私がその疑問について考えを巡らせていた時、彼らは、このダンジョンに向けてついに牙を剥いてきたのであった。

アンデッド

世界中に広がっていった魔物たちは、本能的に私の魔力を求め、再びダンジョンへと帰還しようとする。

魔物には、既存の動物ではありえないほどの美しさを誇る者や、金剛石のように強靭な皮膚や甲殻を持つ者がいた。
魔水や魔草も、彼らにとっては稀少な価値を持つ。
そんな素材や資源を求めて、彼らはこのダンジョンを目指したのだろう。

私が捨てられてから一千年以上の時を経て、彼らは魔力による衰弱を克服する術を身につけたようだ。
これもまた、一種の生命の進化といえるのかもしれない。

ついに人間たちが、このダンジョンに姿を現した。

私はダンジョンの中で身を隠しながら、彼らを観察する。
私の知る人間と、見た目は大きく変わらない。
一千年前と違うのは、その服装くらいだろうか。

私の知る由もないことだが、彼らの装備には「防魔布」という、空気中の魔力による衰弱を防ぐ布が使用されていた。

ダンジョンに現れた人間たちは、まさにやりたい放題だった。
土を掘り返し、草を引き抜き、魔物を狩り、水を汚していく。
しかし、私は人間の行為に関与しない。
ダンジョンという生態系に起きたトラブルに、私が関与してしまうのは正しくないと感じたからだ。
それに、ダンジョンを荒らされ魔物を殺されているにもかかわらず、不思議と苛立ちも感じなかった。
他の魔物を観察していた時と同様に、「人間とはこういう生態なのだろう」と納得していたのだ。
今更だが、やはり私は「人間」ではないのだろう。

味を占めた人間たちは、それからもしばらくダンジョンを荒らし続けた。
マンイーターや大型の肉食魔物に捕食されることも多々あったが、武器を持ち、丈夫な鎧を身に着けた彼らに、ほとんどの魔物は一方的に殺されていった。

そんな侵略が始まって数か月が経った、ある日のことだ。

ダンジョンの地底湖付近で悲痛な叫び声が聞こえた。
当然のごとく観察に向かった私は、そこで魔物の「進化」を目の当たりにすることになった。

そこに居たのは、一人の人間と一匹のスライムだった。
叫び声の主であろう人間の頭部に、スライムがべったりとまとわりついている。
ジュクジュクと音を立て、スライムが人間の頭部を溶かしていた。

私の知るスライムには、そんな能力は備わっていなかったはずだ。
生き物を襲うような攻撃性もなかったはずなのだが、その個体は明らかに人間を敵と認識し、排除するために進化を遂げていた。

――この出来事を皮切りに、ダンジョンは大きく変化していく。

攻撃的な進化を遂げたのはスライムだけではなかった。
一定の形のコピーしか生み出さなかったゴーレムが、より巨大で攻撃的な個体を生み出し、ダンジョンを守るために動き始めた。

ただ這い回るだけだったスライムや、忠実に命令を守るだけだったゴーレムが、自らの意思で動き出したのだ。
私は、それに深い感動を覚えた。

そして、魔物たちの中にも、より狂暴な個体が増えていった。
獣を痺れさせるだけだったマイコニドの胞子は、明確に人間へ有効な毒へと変貌した。
マンイーターも、人間を襲うために根を足のように使って移動できるようになり、おとなしかったトレントも、人間にのみ明確な敵意を向けて枝を振り回すようになった。

角が剣のように鋭いカブトムシ。
巨大な毒針を持つ蜂。
人間に有毒な鱗粉を撒き散らす蝶。
人間を丸呑みにする大蛇。
群れを成して襲い来る強靭なオオカミ。

明らかに魔物たちは、人間に敵対するための姿へと変貌していった。
おそらく、このダンジョンにとって「人間」は天敵だったのだろう。

ああ、なんて面白いのだろう。
天敵の出現による急激な変異、これもまた生命のサイクルなのだ。
まるで、ただの穴倉に過ぎなかったダンジョンそのものに、一つの意志が宿ったかのようだ。

そんな血生臭くも神秘的な毎日に胸を躍らせていた、ある日の出来事だった。

大量の血を流した人間が、私の目の前に現れた。
不用意にも、姿を晒してしまった。
いままでは、なぜか離れていても人間の居場所が把握できていたのだが、その、今にも息を引き取らんとする人間からは、人間から感じる特有の「何か」が失われかけているようだった。

助けを求める彼だが、もちろん私は助けない。そうする義理も意味もないからだ。
なにより、私は直感的に「そうするべきではない」と感じたからだ。

そして私の目の前で男が息絶えた瞬間、彼から完全に「何か」が失われたのを感じた。
不思議に思った私は、その「かつて人間だったもの」を最奥にある私の実験室へと運び込んだ。

運んではみたものの、さてどうしようか。
とりあえず、横たわった「ソレ」から、魔力を遮断していた衣服を剥ぎ取ってみる。

すると、ソレは驚くべき勢いでダンジョン内の魔力を吸収し始めた。

私の長年の仮説では、人間には魔力を取り込む機能が備わっていない。
ゆえに過去、私の側にいた人間たちは魔力をエネルギーとして変換できず、当たるだけで衰弱していくように「設計」されているはずだった。

しかし、生命活動を終えると、その機能が失われるようだ。

死によって「人間」という枠組みから外れたことで、彼らはついに魔物へと転じたのである。
生きた死体――「アンデッド」の誕生だ。

この変質には、おそらくダンジョン全体の狂暴化も影響しているのだろう。
彼らはただ、人間と戦うためだけに存在していた。
既に死んでいるため食事も必要とせず、性質としてはゴーレムに近いが、より戦闘に特化した動きを見せる。

そして、アンデッドの特性として重要なのは、アンデッドによって死んだ人間もまた、アンデッドとなるというものだ。

これもまた、ダンジョンの意思なのだろうか。

ゾンビやスケルトンと呼ばれる禍々しい魔物がダンジョンに蔓延り、人間はダンジョンを深く恐れるようになる。
だが、人間という種は欲深く、探索をやめることはない。

彼らもまた、見事にダンジョンの生命のサイクルへと組み込まれていくのだった。

エルフ

人間の侵攻により魔物たちが狂暴な姿に変異し、アンデッドの出現によって人間たちがダンジョンを深く恐れるようになってから、さらに長い年月が過ぎた。

水がスライムになったように、土がゴーレムになったように――。
もしかすると、この洞穴そのものが「ダンジョン」という名のひとつの魔物に変異したのではないかと思うことがある。
かつてはゴーレムが掘り広げていた道や部屋が、いつの間にか、自らの意志で動いているようだった。

人間という脅威から魔物たちが自らを護るために変容したように、魔物たちを護るためにダンジョンそのものもまた変異しているのだろう。
蠢く洞窟は、まさに巨大な迷宮と化していた。

そんなダンジョンの気まぐれな胎動により、今まで埋まっていた道が不意に開くことも珍しくなかった。

ある日、久しく閉ざされていた一つの道が開いた。
そこから、とても懐かしい匂いがした。私は導かれるようにその道を進み、あの涸れ井戸へと辿り着いた。

晶光草も生えていない、湿った暗く冷たいままの涸れ井戸。
そこには、取り残されたのか、あるいは新たに生まれたのか、数匹のスライムが蠢いていた。「ベチャ」と過ごした日々を思い出し、私はどこか微笑ましい気持ちになった。

そんな涸れ井戸の底に、見慣れない、それでいてある意味では酷く懐かしい存在がいた。

二人の人間の子供だった。
生まれて一年も経っていないであろう、男女の双子。
どのような事情があったのかは知る由もない。ただ、大切に布に包まれ、籠に入れられたまま捨てられていた。かつての私のように疎まれたわけではなく、愛されていたにもかかわらず、何か特別な理由があって捨てられたのだろう。

私が今日ここへ来なければ、そのまま消えていたであろう二つの命。
私はそこに、抗いがたい運命のようなものを感じていた。

しかし、生身の人間は私の魔力に当てられれば、衰弱して死んでしまうはずだ。
哀れに思いながらも、私はその双子を抱き上げた。
ところが、その双子は他の魔物たちと同じように、魔力を拒むことなくゆっくりと吸収し始めたのだ。

人間から捨てられたことで、「人間」という枠組みから解放されたのだろうか。
泣く気力もないほど衰弱していた二人の赤子は、私の魔力を吸い取って活力を得たのか、やがて大きな声で泣き出した。

その姿が、たまらなく愛らしく感じられた。
私は、この子たちを育てることに決めた。
私の右手に抱かれた男の子を「アール」、左手の女の子を「エル」と名付ける。
「ベチャ」や「ゴツ」以来の名付けだったが、私のネーミングセンスは相変わらずだった。

当然ながら、人間の赤ん坊を育てるのは初めての経験だったが、さほど苦労はなかった。
魔力を吸収して栄養にできるのであれば、今までの魔物と何ら変わりはない。牛や山羊の姿をした魔物から乳を貰って与え、成長してからは魔水や魔樹の果実を与えた。

アールとエルは、私ほどではないにせよ成長が早く、数年も経つ頃には人間の青年と見紛う姿になった。他の人間とは違い、魔物たちは彼らに対して敵意を見せることはなかった。むしろ、彼らを我が子のように見守り、慈しんでいた。

彼らは私の言葉を理解し、私が涸れ井戸に捨てられてからの昔話を聞くのを何より好んだ。特に、様々な魔物が生み出されていく過程の話に目を輝かせていた。
どこから拾ってきたのか、いつの間にか彼らの手には手帳があり、私の話を一言も漏らさぬよう真剣に書き留めていた。

その後、百年ほどダンジョンで共に暮らしただろうか。
数々の魔物の生まれ方や生態について、私の言葉を記し続けた彼らは、私を「創造主」と呼び、深く慕ってくれた。

ある日、彼らは私が伝えたその「魔物観察日記」を携え、この偉業を外の人間たちに伝えたいと旅に出ることを決意した。

死んでから魔物になるアンデッドとは異なり、生きたまま魔力を宿した新たな人類。
私ほどではないにせよ、数千年の寿命という不死性を得た彼らは、後に「エルフ」と呼ばれ、人間たちからは「神の子」と仰がれるようになった。彼らは魔物を生み出した存在を人々に語り継ぎ、人々を導く指導者となったらしい。

彼らが旅立つとき、少しだけ寂しい気持ちになった。
だが私は、他の魔物と同じように彼らの意志を尊重し、それによって世界がどう変わるのかを観察することにした。

自分が生み出し、育てた存在が、世界を自由に動き始める。
それはとても面白く、幸福で、満ち足りた経験だった。

――人間を創り出し、その中に異物として私を送り出した「あなた」も、今、私と同じ気持ちなのだろうか。

私は涸れ井戸の底から、遥か高くにある天を見上げたのであった。

…FIN